「ミーシャ・クリチカ」シリーズや「ほたるっこ」などの絵本作品、
アニメーション作品では「手」や「真夏の夜の夢」など次々と名作を
生み出した世界的な挿絵画家であり、人形アニメーション作家である
イジー・トルンカ。
時代を超えて愛され続けるチェコ人気作家である。
思いを表現する仕事に魅せられたトルンカの経歴
1912年チェコのボヘミア地方(当時オーストラリア・ハンガリー帝国の領地だった)の西部に位置する、プルゼニュのペトゥロフラット生まれ。1923年の小学生時代にチェコの人形劇の第一人者であるヨゼフ・スクパ(人形劇シュペイブルとフルヴィーネクの生みの親)と知り合い、人形劇に魅せられたトルンカは、1929年から1935年までプラハ工芸美術大学で絵画、彫刻や建築などを学びながら、アルバイトとしてスクパの主宰する人形劇団に参加した。プラハ工芸美術大学での同期にはアドルフ・ザーブランスキーがいる。この頃から挿絵の仕事もしていて、1933年にトルンカが初めて挿絵を描いた本ヤン・シュノブル作「薔薇と死」が出版された。
1935年にプラハ工芸美術大学を卒業後、プラハ大手出版社であるメラントリフで働き始める。独裁権力のもとで国民の権利や自由が抑圧されていた全体主義体制(ファシズム)であった時代、トルンカは新聞の政治・社会風刺画や雑誌の挿絵を担当しながら、人形劇団「木の劇場」を立ち上げ、ヴァーツラフ広場のロココ劇場でヤン・カラフィアート作「ほたるっこ」を上演し好評を得たが、1937年に経済的な問題から「木の劇場」は幕を閉じた。
この頃、メラントリフ出版社では児童書の挿絵を描くようになると、1939年にメラントリフから出版されトルンカが挿絵を描いたヨゼフ・メンツェル作「故郷の森のミーシャ・クリチカ」が、高い評価を得て挿絵画家として成功を収める。1940年には同出版社から妻のヘレナ・フヴォイコヴァー著で長女のズザナを主人公にしたお話にトルンカが挿絵を担当した「幼いズザナは世界を発見する」が斬新な構成が注目され好評を得る。その後、「ほたるっこ」や「ボヘミアの民話」など数多くの童話を出版し、世界的な名声を博す。その頃、トルンカは絵画や絵本などの個展を開き、演劇プロデューサーであるイジー・フレイカの元で舞台芸術なども担当した。
努力が認められたできごと
1945年ソ連軍から解放され自由になったプラハは、チェコスロヴァキア共和国となった。戦争が終わり、AFIT(戦時中にドイツ軍に接収されていたプラハのアニメーションスタジオで、ドイツの命令によりアニメーション映画を制作していた)に所属していたトルンカは、AFITが戦後ドイツ軍から解放されるとすぐに、その後のチェコアニメーションを担う世代となったボフスラフ・シュラーメクやブジェチスラフ・ポヤルらと、祖国のための映画と芸術性の高いアニメーションを作ろうと集結した。ドイツの命令によりアニメーション映画を制作していたアニメーションスタジオAFITは第二次世界大戦が終わる1945年に国有化され、イジー・トルンカが中心となり、トリックブラザーズスタジオと改名しチェコアニメーションスタジオとして優れた名作を数多く生み出す。1946年には短編アニメーション「動物たちと山賊」でカンヌ映画祭トリック映画最優秀賞を受賞。戦後初のカンヌ映画祭で、同部門に参加したディズニーを抑え、「最優秀」を獲得したトルンカやその他のスタッフであるアニメーターだけでなく、チェコのアニメーションが国際的に評価されることとなる。
セルアニメーション映画を中心に活動していたトリックブラザーズスタジオだったが、1946年にトゥルンカは初めて人形アニメーションを作ることになる。経験がなかった人形アニメーション制作は試行錯誤の連続だった。当時の若手アニメーターであるブジェチスラフ・ポヤルやボフスラフ・シュラーメクたちと「人形映画スタジオ(のちにイジー・トゥルンカ・スタジオ)」という人形アニメーションを作るためのスタジオを設立する。ここではじめて1947 年にトルンカたちは「謝肉祭」「春」「聖プロコップ伝説」「巡礼」「聖名祝日」「ベツレヘム」という、チェコの年中行事と四季を題材にした6つのエピソードで構成した長編人形アニメーション映画「チェコの四季 - シュパリーチェク」を制作した。この人形アニメーションの人形たちは全体が布でできた素朴であり、チェコの独特の風土や伝統が映し出され、民族色の強い作品だったが、完成度が高く、愛情込めて描かれた人間の姿が素晴らしく、1948年にベネチア国際映画祭で金賞を受賞した。その後も数多くの作品を手がけ、1952 年に「チェコの古代伝説」でヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞する。
変化の時代〜これまでの作風とは異なる遺作
大作「チェコの古代伝説」が完成した後は、トルンカは再び児童書や絵本の挿絵を描き、絵本作家として活動する。1955年にヤロスラフ・サイフェルト作「マミンカ」と、フランチシェク・フルビーン作「花むすめのうた」、1957年にはヴィーチェスラフ・ネズヴァル作「黄金時代」などに挿絵を描き傑作を生み出し、1968年には「不思議な庭」で挿絵画家として国際アンデルセン賞を受賞する。
シェイクスピア作品を人形アニメーションにしたいと思っていたトルンカは、「真夏の夜の夢」を完成し、長年の夢を実現する。そして1959年に「真夏の夜の夢」でカンヌ国際映画祭で最優秀賞を受賞する。この作品以降、トルンカの人形の特徴である柔らかな丸みのある線がなくなる。その代わり鋭い線で表現された抽象的でシュールレアリスムな印象の作品が生まれた。トルンカの最後の作品となった1965年に制作された「手」はこれまでのほのぼのするものや、思わず笑ってしまうもの、しみじみと感動するものが大半を占めていたトルンカ作品だったが、遺作「手」だけは違う。遺作以前のアニメーション作品を目にした後に、遺作を目にした人であれば、その違いに気づくと共に、思わず驚いてしまう。
イジー・トルンカの遺作である「手」では、強大な力に押しつぶされて自分の作りたいものが作れなくなるという物語が展開されている。作品の中に登場する人形は、表情を変えず、ものも言わないが、孤独や不安、苦悩、やりきれなさなど、様々な心情が上手く表現され、見る人の心を動かす。
作品は、チェコの来るべき時代(「プラハの春」以降の暗黒の時代)を予言した作品として、また、トルンカ自身が死を間近に感じ、作品がこれまでのように自由に作れなくなってきたことを示す作品として高く評価されている。実際、トルンカが手がけた作品の中で強く印象に残った作品として「手」を挙げるファンは多い。人生の集大成としてこのような異彩を放つ作品を残したこと、人形に命を吹き込んだトルンカに心を打たれる作品だ。